電子文字化と法律研究
(Electrifying Written Symbols and Legal Studies)

はじめに
1.電子文字化とはなにか
2.印刷文字文化圏から電子文字文化圏への移行
 2−1.印刷文字文化圏
  2−1−1.写本時代から活版印刷の時代へ
  2−1−2.印刷文字文化圏の特徴
 2−2.電子文字文化圏
  2−2−1.電子文字文化圏の特徴
  2−2−2.電子文字文化圏への移行
3.法律研究方法へのインパクト
 3−1.法律研究の効率化
  3−1−1.文献収集の効率化
  3−1−2.判例検索の効率化
 3−2.法律研究の変容
 3−3.法律学教育の変容
おわりに


はじめに

 コンピュータ・テクノロジーの進化は、我々の日常生活にも様々な変化をもたらしつつある。その進化の恩恵は、情報機器とか作業機械の進歩という形で我々に享受されることとなり、これら機器類が、人間がこれまで行ってきた単純な肉体的作業という苦役からの解放を可能にし、さらには、人間の行う様々な知的作業の代替までをも行うこととなってきた(1)。
 コンピュータ・テクノロジー進化の社会に対するインパクトを論ずるという観点は、これまで常に、人間の物理的肉体的労働のコンピュータによる代替がもたらす社会的影響を注視するものであった。ときには、高度な算術計算をコンピュータに行わしめることによる科学計算分野での効用を論ずるといった形での、人間の精神的労働のコンピュータによる代替といったものも散見された。しかしながら、社会科学や人文科学においてコンピュータ・テクノロジーの影響がどのように現れるかを論ずるものは、ごく希である(2)。たしかに、例えば、計量経済学にコンピュータを用いて数値計算を行わせつつ学問的展開をはかるとか、教育学においてCAI(Computer Aided Instruction)の効用と活用手法を論ずる(3)とかは、かなり一般に行われている研究分野であるが、こうした手法の研究進捗度とその是非を論ずるのが、本資料の主眼ではない。本資料が問題とするのは、社会科学とくに法律学といった分野には、こうした形以外に、コンピュータ・テクノロジーの進化の影響はどのように現れてくるのかを考察することにある。
 本資料は、『電子文字化』という現象が今現在の『法律研究』手法にどのような変化をもたらすであろうかを述べることを、主眼としている(4)。私は、『電子文字化』という現象が社会科学特に法律学に、画期的な変化をもたらすと、予想している。コンピュータ・テクノロジー進化がもたらす電子文字化という現象が、印刷文字文化圏から電子文字文化圏への移行を余儀なくさせ、さらには、文字文化圏からの離脱をも可能にすると予測している。
 かつて、シェイクスピアの研究者達は、シェイクスピアの全作品中から特定の語句の用法を網羅的に見つけだすのに自分の半生を傾注した。これが彼らの地道な研究成果であった。いま、このシェイクスピア全集が電子文字化されCD−ROMに入っていれば、彼らの捧げた半生を、数十秒でコンピュータが再現してくれる。それも、どの研究者よりも瞬時に正確に、である(5)。
 こうした情報メディア変革はどの様な影響を社会科学にもたらすのであろうか。これは、単純作業を機械が単に代行しているに過ぎないのか、それとも新たな可能性を示唆しているのものであろうか。本資料は、こうした電子文字文化圏への移行の必然性を述べ、その移行過程をたどりつつ、その社会科学とくに法律学研究への影響を検討するものである。

1.電子文字化とは何か

 人類は、これまでに数次の情報革命と呼ばれるものを経験している。その第一の情報革命は、人類が言語を持ったという言語革命であり、第二が文字という情報伝達手段を持ったという文字革命であり、第三が活版印刷術による情報伝播手段を持ったという印刷革命であるとされる(6)。そして今人類は第四の電信・電話・テレビなどとコンピュータを結んだコンピュータ通信革命を体験しようとしているのである。
 電子文字化は、このコンピュータ通信革命によって引き起こされる現象の一つである。電子文字とは、ワープロ、コンピュータ等で電気的な信号に置き換えられた文字であり、従来のように紙等に記載・印刷された静的な状態の印刷文字への対立概念である。電子文字化とは、狭義には、我々が日常使用する文字等がパソコン、ワープロ等電子の画面上に表記され、これが電子文字となり、これらが電磁化された記憶媒体により文字情報のやりとりがなされることのみを指す(7)。一方、広義に捉えれば、まず電子文字化は、電子文字文化圏への唯一の入口であり、電子文字化という言葉は、ただ単に文字がワープロ等で打たれフロッピーディスクなどの記憶媒体の中に収まっている状態だけでなく、それらがパソコン通信、コンピュータ・ネットワークといった電子の情報媒体を通して、伝達され公にされることまで含むこととなる。このような状態が一般に普及した社会を、まさに電子文字文化圏と呼ぶのである(8)。
 電子文字文化圏は、文字情報が電子文字によって、やりとりされる高度情報化社会を想定している。当然のこととして印刷文字が電子文字に置き換わったことだけでは、情報革命というほどのものは起きないであろう。電子文字が印刷文字に比べて高速かつ多様な伝播方法を持っているという特徴を活かす、つまり情報処理端末としてのコンピュータのネットワーク化をはかり、電子文字がそうしたネットワークを通じて、瞬時にあらゆる人の所に到達する状態でなければ、情報革命といった変化は起きないのである。

2.印刷文字文化圏から電子文字文化圏への移行

 高度情報化社会という言葉に代表されるコンピュータ社会の訪れは、不可避である。そのコンピュータ社会で必然的に起きるのが、文字の電子化である。今現在われわれの住む印刷文字文化圏から電子文字文化圏への移行はどのように行われ、またどのような変化を社会にもたらすのであろうか。そこでまず、印刷文字文化圏とはどのようなものであるかを検証するために、その形成された過程を、印刷文字文化圏以前の写本の時代と比較しつつ考察してみる。

 2−1.印刷文字文化圏

 印刷文字文化圏とは、情報伝達手段としての文字が紙などに印刷され静止した状態で伝播する社会の文化を想定している。われわれの住む現在が、まさにそれである。15世紀半ばグーテンベルクが活版印刷術を考案して以来、われわれ人類は活字という印刷文字がもたらす文化圏において、情報のやりとりを行ってきているのである。

 2−1−1.写本時代から活版印刷の時代へ

 印刷文字文化圏における特徴とは、どのようであるのか。われわれは既に印刷文字文化圏に生きている以上、その意味を知るためには比較の対象物を持たなければならない。そこで、印刷文字文化圏の以前に存在していた写本の時代等における本の歴史を見ることで、特徴を考察してみる。
 人類はこの地球上に現れて以来言葉は話すが文字は持たない長い時代を経験し、約4千年まえになって文字が発明され(9)、文字によって文化が飛躍的に発展することとなった。人類が言語をもちそれを粘土版に書き記したことから、本の歴史がはじまるとすれば、かなりの長さをここでは考察の対象とすることになるが、ここでは人類が紙に文字を書き記すようになって本という形に表すようになってからの時代を考察することとする。
 まずは、古代の本はどのようにして作られていたかである。本作成の歴史は次のように説明される(10)。「印刷(木版)は、東洋では8世紀のはじめごろ中国で行われ、西欧ではようやく14世紀末か、15世紀初葉になってその出現を見る」のであった。
 「ヘレニズム時代の出版は、これらの図書館[ムーセイオンといった古代の大図書館]とつねに連携を保ち、そこに集まった多数の書写本により、いく組かの言語学者がテキストを校訂し、各テキストについて定本を決定し、定本によって販売用の写本がつくられ、一般に流布され、それから複本がつくられた、とされる。いちどに多数の複製を必要とするとき、1人の読み手が部屋の中央で声高く読み上げると、多くの写字生がそれを聞いて、いっせいに筆を走らせた。」
 さらに、「古代ローマでは、書肆が多少読み書きのできる奴隷を雇い入れ、1人の読み手が部屋の中央に席をとり、声高く原文を読み上げると、20人またはそれ以上の写字生が、いっせいに書を書き取った」のである(11)。
 そして、中世期の本づくりには、教会が大きな役割を果たした。古代ギリシャ・ローマ文化の崩壊の後、たび重なる戦争が地中海沿岸の諸都市を荒廃させ、いわゆる文化的暗黒時代を現出し、出版文化も荒廃した。「かつてギリシャ・ローマの時代、数十名、数百名の写字生を抱え、隆盛を誇ったローマの書肆も、かなり以前から作業所を閉鎖し、学問は一部の貴族・僧侶らの専有物となり、庶民はいずれも文盲の徒ばかり、書物の必要を認めず、僅かに深い森や人跡まれな山間の僧院で、自分たちの霊魂を救う聖典の制作に余念のない修道僧たちの姿を見るにすぎなかった。大きな僧院には、どこにも書写室(scriptorium)があり、修道僧たちは日課として、毎日一定の時間そこで書写の仕事に従った。写字生たちは至って簡素で、机・椅子・インキ・鵞ペン・ペンナイフ(鵞ペンの先を削るもの)・羊皮紙・軽石(羊皮紙の表面をなめらかにするもの)・太針(罫線をひく目じるしをつけるもの)・罫線用の定規・原本をのせる台・文鎮などが用意されていた。僧院の修道僧たちは、ローマ時代の営利を目的とした書肆に雇われた奴隷などではなく、神の栄光を顕すための聖書の複製や、その他の聖業に携わる者であり、ここでは正確と荘厳が重んぜられ、中世期の豪華な装飾写本(illuminated manuscripts)が産み出されたのである。写字僧が聖典の書写をはじめるにあたっては、まず作業の前に十字を切り、神に祈りを捧げてからおもむろに仕事に取り掛かった。作業中は一切沈黙をまもり、絵心のある者が文章の冒頭の頭文字や輪郭を金銀泥やその他の絵具で飾り、本文の文字は1字1字ゆっくり原本と照らし合わせ、丁寧に書き写していった。1冊の本を書き写すのに幾週間も幾月もかかった。また書写に要するパーチメント(羊皮紙)やヴェラム(仔牛皮紙)はなかなか高価で、相当な頁数の本になると、羊や仔牛の皮を何十枚も何百枚も要したので、もしこのような本を求めようとすれば、非常に高価なものであったにちがいない。」(12)
「中世期の書物は、今日のように書棚にしまっておくことはせず、僧院の図書室では斜めになった書見台の上に1冊ずつのせ、本の端に鎖をつけ、その鎖を書見台の1部にとりつけ、他所には持ちはこべぬようにしていた。書物が少なく高価だったので、書盗を防ぐ一手段だったのだろう。このような鎖つきの本(chained books)は18世紀のなかばごろまで、オランダなどヨーロッパの一部では行われていた」とされる(13)。
 写本の時代は、本の作成のため、現代からは考えられないほどの労力を必要としたことがうかがえる。このような生産技術の低さにもかかわらず、作成される本の数が増え続けたことは、社会が必要とする情報が増え続けていたに他ならないのである。このような状況が活版印刷術の発明をもたらす要因となるのである。
 印刷文字文化圏への移行は、写本時代の手作業による印刷媒体の製作からの脱却を意味する。この移行をなさしめたのは、三大発明(14)の一つとされるグーテンベルグによる活版印刷術の発明である。グーテンベルクによる活版印刷術の発明は、人類の知識がこせこせした手書き文や口頭による言い伝えでは、記録し伝達するのに、量が大きくなりすぎた時に行われたのである。仮にそれ以前に、別の誰かが同じ印刷機を作ったとしても、それを必要とする社会、文化的需要がなければ、あるいは普及しなかったかもしれない。逆に知識量が増大し、知識を記録し、伝達する必要性が一定の水準を超える時点に至れば、グーテンベルクが葡萄の圧搾機を改良して印刷機を作らなくとも、誰かが、あるいは別の方法で印刷機を作ったに違いないのである(15)。
 15世紀中葉の活版印刷術の発明以後、短期間にこの文字印刷革命が世界中に伝播していったのではない。活版印刷技術の伝播は十数年後にはヨーロッパ全土に広がるが(16)、この活版印刷技術を基礎とした出版物による社会、つまり印刷文字文化が到来するのは数世紀のちのことである。

 2−1−2.印刷文字文化圏の特徴

 グーテンベルクに代表される活版印刷術の発明がもたらした功績は、写本の時代とは比較にならないほど大量かつ均一の情報を印刷文字によって伝播可能としたことにある。よって地球上のある時代のある地域において著作活動を行った人物の文章や思想が、別の時代、地域で生きる人間にとって容易に知ることができることとなった。これは、われわれの社会の基本的パラダイムを構成する決定的要素となっているのである。
 また、活版印刷の発明は、いろいろな新しい観念を生み出した。たとえば、"著者"というものを生み出したのである。写本の時代には、"著者"というものはなく、ほとんどの本が"書きびと知らず"であった。印刷術の発明は、"書きびと知らず"が発生する余地を技術的に排除してしまった。今日の著作権とか、知的財産としての書物、といった観念が創造されたのも活版印刷術の発明以降なのである(17)。
 今日の印刷文字文化圏の形成は、15世紀中葉の活版印刷術の発明以降、写本と活版印刷本との混在の時代を経ながら、ゆっくりとなされてきたのである。

 2−2.電子文字文化圏

 文書作成におけるコンピュータの利用、つまり活版印刷文字ではなく電子の文字により文書を作成することは、活版印刷術の考案に匹敵するほどの情報革命をわれわれにもたらすのである。

 2−2−1.電子文字文化圏の特徴

 ここで、電子文字文化圏における特徴を本を通して考察してみよう。そのために電子文字文化圏における本の特長を列挙してみる(18)。
(a)まず、印刷文字本のように本の作成に時間がかからなくなる。著者の脱稿と出版の間に存在する大きなタイムラグは解消され、短時間に本が出版される。
(b)ひとたび出版が行われると内容が固定化され個々の部分についての改訂は版を改めない限り行うことができない、という印刷文字の欠点が克服され、著者と読者の間で自在に双方向の情報のやりとりが可能となる。印刷文字文化圏における書かれたものからの情報は、一方的なものである。つまり、一度本という形で印刷された文字情報は訂正修正ができないものであり、書き手から読み手への一方的な情報伝達である。読み手にすればその文章をあれこれアレンジすることはできないが、ある情報に読者が手を加えることによって、その情報の価値が増すこともある。また、書き手が出版する以前に読み手からの情報を得ることも容易ではないが、電子文字文化圏では、これらの双方向の情報伝達が容易に行えるようになる。したがって、受け手が受動的でなく能動的に情報の摂取が可能となる。
(c)印刷文字本は、最低数百から千以上の購読者の市場が必要で、あまりに専門的な領域にかかわるものは、購読者が限定されるため、出版が困難である。しかし、電子文字文化圏での本は、部数に制限を受けずそのまま公にすることが可能である。
(d)多様な検索方法が可能になる。印刷本の場合、内容を検索するとき、目次や索引で該当する箇所を検索することはできるが、文中の語彙の横断的な検索や中間一致、後方一致などの検索は行うことができない。一方、電子文字文化圏の本では、後方一致とか中間一致検索方法と不完全一致検索が容易に行える(19)。そして、辞書にあるような見出し語と本文といった区分が不要になる。辞書はかならず、検索のための見出し語を持ちこれが情報を引き出すときのキーになる。しかし、一度電子文字化されれば、いちいち選びだされた見出し語に束縛されることなく検索が可能となる。見出し語から導かれ用語説明の本文中に含まれる単語がすべて検索対象となり、辞書の持つ潜在的な能力を最大限引き出せるようになるのである(20)。
(e)印刷本の場合、本の部分を入手したい場合でも全体を求めなければならない。たとえば時刻表の場合、知りたい時刻は一つの路線に限定されていても、一冊の時刻表を買う必要がある。電子文字文化圏では必要な部分だけを入手することが可能である。
(f)印刷本は、内容の配布と伝達は物理的形態そのものの移動によって行われ、移動に伴い時間面、経済面、労力の面でロスが生じる。一方電子文字文化圏では、電気信号によって基本的に情報を送るため、少ない労力で、瞬時に、どこからでも内容の配布と伝達が可能となる。
(g)印刷本は、嵩が大きいため、購入にあたって、スペースの拡大にも気を配らなければならない。図書館や資料室では施設の拡充や古い本の廃棄に悩まされ続けることになるが、電子文字文化圏で、ひとたび電子図書館が実現されれば、図書館に本がなくなるであろう(21)。
(h)印刷本は、有限な紙資源を大量に使用する。これは地球資源の枯渇につながる。一方、電子文字はそれを必要としない。
(i)電子文字文化圏では、情報がマルチメディア化(22)され、圧倒的な情報量でもって情報伝達が行える。従来扱いたくてもできなかった情報が伝達可能となる。たとえば、音声データが扱えることとなり、電子文字の辞書は音を出すことができ、鳥の姿形をイラストで見ながらその鳴き声を聞くことができる(23)。さらに、イラストや挿し絵といった静止画像そして動画といったアニメーションを伝達情報として扱える。たとえば、昆虫の脱皮の様子を見たければその様子をビデオを見るように辞書の中で見ることができるのである(24)。
(j)活字化された文字に対する崇拝的な畏敬の念が完全に払拭され、著者の絶対的権威が失墜する。印刷文字文化圏では、紙に印刷され固定化された文字を読み手が理解するという情報伝達形態をとるため、その著者に対していかに意義を唱えようとも、書物化されたテキストは微動だにせず、いわば永遠の権威性をそなえている。著者と読者との間には、出版という大きな障碍が存在するため双方向の交流は無きに等しく、それゆえ著者の権威が生まれてきた。電子文字文化圏にあっては、著者という絶対的権威の構造が解体されるであろうと予測できるのである(25)。

 2−2−2.電子文字文化圏への移行

 電子文字文化圏への移行が必然ならば、その進捗度はどのようなものであろうか。アメリカのイリノイ大学図書館学大学院が1979年に行った一つの調査結果がある(26)。
その報告によると、
(a)現在の索引・抄録誌は2000年までに50%が電子的形態のみで刊行される。90%が電子的形態になるのは2000年以降。
(b)現在の科学技術、社会科学、人文を含めた雑誌は、2000年以降になるまで25%の転換レベルに達しない。
(c)現在の参考図書の25%は1990年までに電子的形態のみで利用される。2000年以降になって50%レベルが転換する。
(d)1995年までに、新たに刊行されるテクニカルリポートの50%は電子的形態のみで利用される。90%が電子的形態になるのは2000年以降。
という予測結果が示されたのである。
 この予測および写本の時代から印刷文字文化圏への移行過程から推測できるように、将来的に電子文字が印刷文字に完全に取ってかわるのはかなり先のことである。すぐさま、どちらか一方のみが残るという二者択一的構造ではなく、両者の混然とした状態を経てやがて電子文字に完全に置き換えられるであろう。よって過渡的な段階では、両者が補完的で相互的な関係を維持し続けると予測できよう。メディアの変遷は印刷文字文化圏が形成されてきた過程のように、われわれが想像する以上に、ゆっくりとした時間を必要とするであろう。
 新しいメディアは、着実にわれわれの文化そのものを変形していくのである。メディアの変化は、おそらく使用者の世界観そのものの変化をもたらすと考えられるのである(27)。

3.法律研究方法へのインパクト

ここで観点を法律研究に向けてみよう。ここまで述べてきたことから次のように考えることが可能である。まず、印刷文字文化圏から電子文字文化圏への移行に際して、法律の世界にも電子文字化の波は必ず押し寄せてくる。すると、やがて大多数の本がなくなる。法律研究が情報源として研究に用する判例集、法律雑誌、教科書、注釈書など殆どすべて印刷文字でできた本が電子文字に置き換えられる。これらすべてが電子文字化されるとどのような変化が起きるであろうか。以下に検討してみたい。
 そもそも、情報伝達のメディアが変わると法律学は変化するのであろうか。事実、メディアの変化が法律学に与える影響には大きなものがある。写本の時代と活版印刷術の発明以降とでは、一線を画するほどではないにせよ、法律学に変化は認められるのである(28)。
 まず第一に、大量に同一内容の本が安価に頒布できるようになったことは、法律研究を志す者の裾野を広げ、今日のような広範な領域にわたる研究を可能とした。法律研究が、国王の統治のために一部の限られた人達にだけに閉ざされた学問領域から、近代市民社会における民衆の権利を保障するための開かれた法律学へと発展させる契機をもたらしたのも、活版印刷術発明の功績といえよう。さらに、判例研究という独特の研究手法を法律学に備え付けさせたのも同様である。伝承でしか伝えられなかった情報が固定化された印刷文字で流布することは大きな変化である。そして同品質で圧倒的な量の判例集が世界中の法学部の図書館に収蔵され、同一の文字から多くの者が研究できるようになったのも、活版印刷術の功績である。
 このように、法律学がメディアの変遷にともない自らを変化させていくものであることは理解できよう。では電子文字文化圏での法律学は如何なるものになるのか、この変化を法律研究の効率化という観点から見てみよう。その変化は、まず現在の印刷文字を電子文字化する作業の進捗度にも左右されるが、かなりの印刷文字文化圏での作業が効率化されるのである(29)。

 3−1.法律研究の効率化

 電子文字化された法情報を利用する効用の主眼となるのは、ライブラリー・ワーク、つまり図書館における資料収集作業の効率化である。ここでの効率化とは、必要時間の短縮、情報の精度向上、利用者の空間的移動の極小化、精神的苦痛の軽減を対象とする。
 法情報収集の理想的な形態は、あらゆる情報を電子文字化されたコンピュータのデータとして保持する、いわば電子図書館を、外部データベースとしてパソコン通信といったコンピュータ・ネットワークからアクセスし、必要な法情報を利用者各自のコンピュータにダウンロードし、あらたに情報処理加工されたものは再び電子図書館にアップロードする、といったものであろう(30)。
 この電子図書館実現のためにも、法律学に関する情報データはすべて電子文字化することが必要となる。これには、著作権問題、データベースの管理運営の問題等と困難もつきまとうが、実現しなければならないものであり、近い将来に、判決文の作成(これに至るためには準備書面、冒頭陳述書等の法廷提出物も含めて)、そして法律文献の作成、において電子文字化をはかるべきである(31)。

 3−1−1.文献収集の効率化

 法律研究における文献収集の効率化とは法律文献検索であるが、これは法律を学んだことのある人ならば誰でもつらい経験したことのある法律文献資料の調査と入手である。法律に関する文献の多さは、相当なものであり、自分の必要とするテーマに関する文献を、教科書、注釈書、法律雑誌(月刊誌、各大学の機関誌など)、論文集などから一つも洩らさず拾い上げることは、かなりの時間と労力を要する。しかしながら、電子図書館といったコンピュータに法律文献のすべてが入力されていれば、テーマ別はもちろん作者別、年代別であろうが、そのデータのもつキーワードによって瞬時に漏らさず調べることができる。全国すべての大学図書館および国会図書館さらには海外の図書館との間のオンラインネットワーク化が進められ、図書館の間での情報相互交換が更に盛んになるように研究され設備拡充されれば(32)、世界規模の電子図書館は、自宅のパーソナル・コンピュータの中で十分実現可能なことである。これにより、法律研究に際して、文献調査入手に費やされる時間と労力を大幅に削減でき、漏れがなく最新の精度の高い情報が手軽に入手できることなり、法律研究の効率化はかなり促進されよう。

 3−1−2.判例検索の効率化

 法律を学ぶについて判例研究は不可欠であり、また判例集を頻繁にめくるのも法律学独自の作業であろう。そして実際に自分が調べたい判例にすぐに巡り会える場合ばかりではないこともしばしば経験する。判例を調べるということは、様々な必要用途に応じてなされるわけであるから、多数の判例集を一枚一枚丹念に調べることは不可能に近い。しかし、電子図書館のように、この判例がコンピュータに電子文字化されたデータとして入っていれば、様々な形で自分の欲しい判例を簡単に選び出すことができる。つまり判例集という膨大なデータのなかから、自分の必要とする判例の様々な特徴を検索条件としてコンピュータに入力し、コンピュータにその条件に合致した判例を選び出してもらい、この判例を入手するのである。例えば、年月日の指定による判例の特定とか、裁判所指定による判例の特定、担当裁判官による判例の特定などによってである。
 この判例検索システムが完成し実用化すれば次のようなことも可能となる。例えば、ある判事が裁判官としていままでにかかわった判例を全数抽出してその判事の判決に対する判断傾向を調べるとか、同様に、ある弁護士が担当した裁判例を全数抽出してその弁護士の勝訴率を調べ弁護士の勝訴率ランキング表を作成するとか、ある地裁において交通事故での損害賠償額の認定額はいくら位になっているか平均額を調べるとか、いったようなことが、従来の様に多大な時間と労力を必要とするからやるだけの価値がないと見なされてきたことが、実現可能になる。そして多量の時間と労力を必要とする文字処理作業を、瞬時に処理し、法律研究での不必要な時間を省くことができるようになる。このような段階に達すれば、判例研究の可能性も変わってこよう。たとえば、最高裁における判例変更が、最高裁判事の構成により大きく左右されるということから、最高裁判事の過去の判断傾向の分析に基づいて判決を予測し、判例変更のなされる確率を算出することも不可能ではなくなるであろう。またこのような可能性から、裁判官の忌避というものの意味も変わってこようし、判決の予想がかなり早い段階でできるようになり、訴訟に対する迅速な対応ができることとなろう。よって判例検索システムの活用は、これまでの判例研究とは異なった研究手法を導き出す可能性を秘めているのである。

 3−2.法律研究の変容

 これからは、コンピュータを通じて様々な形で情報を受け取ることになり、文字情報を越えた世界からの情報に基づき、法律の研究、教育がおこなわれることになる。したがって、コンピュータ革命が与える影響、特に法律学においては電子文字化の影響は、ただ単に情報伝達手段の変革にとどまるものではなく、法律学のあり方そのものに一大変革をもたらす可能性を秘めている。法情報が、文字データの電子文字化という変革にとどまるものではなく、マルチメディア化し、画像情報、音声情報もデータとして扱うことになる。文字という媒体を通じて社会現象を捉えてきた社会科学としての法律学は、大きな転換期をむかえることになるのではなかろうか。
 電子文字化が徹底するとどのような変化が起きるであろうか。まず、判例の"入り"と"出"が電子文字化されるということ、つまり、弁護士が作成し電子文字化された訴状とか準備書面といった法廷への提出書類を活用して、裁判官自らが判決文を電子文字で作成し、それが判例データベースに入力され、判例研究をする者はパーソナル・コンピュータからそれを各自検索し必要な判例をダウンロードするという状況が生まれてこよう。学会もコンピュータ・ネットワーク上でオンラインで開催される。一年に一度一堂に会して議論を戦わす必要はなく、随時コンピュータのネットワーク上で議論ができる。法律雑誌も電子文字化されれば、一冊を購入することなく読みたい記事だけを購読することができるようになる。法律雑誌の出版も、原稿提出と校正間の時間が短縮でき、短時間に編集可能となり、編集委員の意向に沿わず切り捨てられた論文を公表するチャンスも生まれ、またどのような経過で編集がなされるかの経緯をオンライン上でみることも可能とすることができる。紙面の都合上という名目で切り捨てられた論文も、評者に軽んじられた著者でも、ネットワーク上の読者の評価によって汚名をそそぐ方法を持つことができる。
 では、将来においてコンピュータが法律学に深く行き渡り、電子文字化が浸透したとき、法律学自体は大きく変化するであろうか。たとえば、従来の法律学が目指してきた目標が変わってしまうとか、従来の法律学における方法論が変化してしまい、法律学自体がまったく異質なものになってしまうのであろうか。法律学研究と呼ばれるものはどのような影響を受けるのであろうか。
 そこで電子文字文化圏での法律学そのものの変化について考えてみることにする。まず古くから議論されてきたことではあるが、法律学とは何をするものかについての考え方である。一つの考え方として次のようなものがある。「法律研究において、吾人は二個の学風あることを知る。一は法律学的研究にして、一は法学的研究なり。けだし法律学と法学とその各相近くしてその実はなはだ遠し。一は法律条章の解釈応用を主眼とし、一は法的修練をもってその眼目となす。一は重に条文の暗誦を目的とし、一は主として法理の観念を養うを目的とす。一は実際的にして、一は学術的なり。一は技術に近く、一は科学に属す。一はむしろ法術と称すべく、一は真正に法学の名を値す。」(33)
 この法術といわれる部分が電子文字化によりコンピュータによる代替が可能となるのではなかろうか。法律学における知識、つまりリーガルマインドを習得するための前提としてのそれには、法的な知識を覚えることに大きな力点が置かれる。どれだけの法条文を暗記しているか、どれだけ多くの判例を知っているか、どれだけ多くの学説を記憶しているか、これが知識と呼ばれ、時にはこれが偉大な業績といわれる。そうしたものが、すべて電子文字化されれば、コンピュータ操作を習得すれば、いとも簡単にそうした知識が得られるようになるのである。この法術といわれるものが変化すれば、やがては真正に法学の名にあたいするものにも影響をもたらしていくであろう。

 3−3.法律学教育の変容

 法律学における電子文字文化の影響は、法律学研究の手法変化のみでなく、法律学の教育手法そのものに一大変革をもたらす。電子文字化に代表されるコンピュータの法律学への浸透は新たな教育手法を必要とであろう。かならずや、法情報学といった従来の学問研究の延長上にある捉え方では、把握しきれないものが出現してくる。CAIを使った法律学教育も当然出現してくであろうし、法情報データベース等を効率的に操作するための教育も必要となってくるであろう。法情報が、文字データの電子文字化という変革にとどまるものではなく、マルチメディア化して、画像情報、音声情報も法律学のデータとして扱うことになり、法律学の教科書も全く様相を変えるであろう。
 初等教育でコンピュータ操作を習得した法学生(34)は、もはや厚い六法を持ち歩くことなく、ノート代わりの安価な携帯用パーソナル・コンピュータに組み込まれた六法を検索しながら勉強する。もはや図書館に出向いて分厚い判例集をめくったり、多岐にわたる法律雑誌類を大きな書棚から引きだしてコピーをとる必要もなくなる。図書館自体に本がなくなり、そのものが存在しなくなっているかも知れない。判例文献検索においても、漏れのない情報検索が可能になり、容易に瞬時にかつ高速に行えることになる。法学生の作成するレポート類は参照件数という点では格段の向上をみせるであろし、レポート提出もすべて高速通信網で教員のコンピュータに瞬時に送られる。
 学生と教員との知識差が、ある判例とか論文の存在を知っているか否かといった次元でのものではなくなり、どのようにそれらを理解するかに知識獲得の重点が移っていくであろう。そのような一次的情報の存在は、もはや知識とはなり得ないのである。そこで必要とされるのは、溢れ出てくる情報をどのように切り捨て必要なものだけを取捨選択し、どうやってそれらの情報を有機的に結びつけるかという手法の習得である。そのとき、新たな法律学教育が出現してくるのは必然なのである(35)。

おわりに

 ここまで、電子文字化に対する法律学の変容を考えてきたのであるが、法律学は電子文字化されてもなんら本質的には全く変化することはないと考えることも可能である。
 つまり、コンピュータ社会が到来し、電子文字化の波が法律学に押し寄せてきても、あくまで電子文字化といってもそれは法律学上の研究を行う一つの道具または手段にすぎず、法律学を行う主体は相変わらず法律家で、彼らは印刷文字にせよ電子文字にせよ結局同じ文字を扱うのだから、法律学自体にどのような変化も起こり得ないのだ。そして文字情報革命という言葉で、電子文字化現象が社会的影響力を持つとしても、事実、写本の時代から印刷文字の時代への以降の前後において、どのように法律学が実際に変化したというのか。本質的なものは何も変化していないのではないか。人類が生存する限り法は存在しこれを法律学は学問対象として扱うのであるから、電子文字文化圏がどのようなものになるにせよ、人間が中心となる社会である以上、法律学に変化はありえないと考えるべきである、と(36)。
 いずれの時代にせよ法の存在しない社会は考えられない。法律学も多かれ少なかれ時代とともに変化してきており、また変化すべきものである。そして法律学自体の発展のためにも、変化することが前提となっているのも当然である。その変革の中で変革がもたらす影響を取り入れ排除し得るのは法律家自身である。
 電子文字文化圏においては、コンピュータにでもできるような文字情報操作を人間が行うのではなく、法律家は、機械の行い得るような単純な苦役作業から解放されて、もっと創造的な研究に力を注ぐことが必要であると言えるのではなかろうか。これまで法律家が行ってきた単純な作業をコンピュータに代替させ、もっと創造的な作業に時間を費やすことが可能となってくるのである。
 法学者が単純な労働から解放されその時間と労力をより創造的なものに傾注することで、はじめて法律学の質的な発展がみられるのではないだろうか。その変化はゆっくりとではあるが、着実な足どりで訪れようとしているのである。


     註

(1)コンピュータを法律学に導入することについては、早川武夫,『アメリカにおける法学と電子計算機』,ジュリスト328号,1965年,31-39頁;早川武夫,『コンピュータの発達と法学の将来』,ジュリスト681号,1979年181-186頁;加賀山茂,『法律家のためのコンピュータ利用法』,有斐閣,1990年,6頁;伊藤博文,「コンピュータ法学(CaLS)の可能性」,豊橋短期大学研究紀要第10号,1993年,194頁以下、等参照。
(2)人文科学におけるコンピュータの有効性を論ずるものとしては、黒崎政男,『哲学者クロサキのMS-DOSは思考の道具だ』,アスキー,1993年;奥出直人,『思考のエンジン』,青土社,1991年等がある。
(3)中山和彦・木村捨雄・東原義訓,『コンピュータ支援の教育システム−CAI』,東京書籍,1987年;芦葉浪久,『コンピュータの学校教育利用』教育とコンピュータ2,東京書籍,1986年,35頁。
(4)本資料の論点を述べるにあたり、種々雑多な研究分野にわたる叙述がなされるが、これら総てが網羅的で充分論証し尽くしてるとは考えていない。なぜならば、私の能力不足が第一の原因となっていることと、二次的な要因として、詳細な論述がかえって論点を不明瞭にしてしまうおそれがあるからである。よってこの資料を公表する意義は、不完全ながらも、この方面の研究を促進するために多くの方からの批判を仰ぎ今後の発展に繋ぎたいがために発表するものである。私が加入しているコンピュータ・ネットは次のものであり、こちらに意見や批判を送付していただければ幸いである。JUNET:d43159g@nucc.cc.nagoya-u.ac.jp,NIFTY-Serve:QFF02244@NIFTYSERVE.OR.JP,CompuServe:73550,2244
(5)「コンピュータがなんでも教えてくれるわけではないが、使用者の側に知りたい点や追求したい問題がある場合には、瞬時にそして正確に答えてくれる。例えば、ヘーゲルやハイデッガーが、カントについてあれほど論じていた「超越論的構想力」という語は、カント自身『純粋理性批判』の中では一度も使用していないことが確かめられるし、カントの中心的述語である「物自体」は、前批判期には一度も使われてはいないことを確証をもって主張できるようになる。」黒崎政男,「電子テキストが哲学を変える」,朝日新聞1993年3月10日夕刊,13頁。
(6)『現代用語の基礎知識1986年版』,自由国民社,959頁。また、「メディアの変遷は、大きく四つに分けられる。第一のメディアは、声や身ぶりなどを使った情報の伝達。第二のメディアは、文字などモノをとおした情報の伝達。第三のメディアは、印刷物、写真、映画など複製されたモノによる情報の伝達。そして第四のメディアが電子による情報の伝達」と捉える考え方もある。室井尚,「メディアとコスモロジー」,『情報文化問題集』,NTT出版,1992年,75頁。
(7)電子文字は、その特徴として物質性をもたない。つまり、印刷文字は、紙やインクの物質性ゆえに、流れ去る思考や話された言葉とは対照的に、不動で固定的な存在であるのに対し、電子文字は質料性を有しておらず、極めて不安定な状態にある。故に、あらゆる書換変更、削除、追加が可能となる。われわれは文字を用いるとき、移り行く思考や時間的変化を書き留めるためにとして用いる。つまり動の情報を記録に留めるという静の情報へと変換しようとする。これは、確実で安定した情報伝達手段である。読むことしかできない、という印刷文字の性質は、そこに書かれた文字列が不動のもので永遠に固定化されているという安心感をこちらに与えてくれる。これは、形を持たず流動化する電子文字の世界にあっては、極めて重要な性質である。黒崎政男,『哲学者クロサキのMS-DOSは思考の道具だ』,アスキー,1993年,92頁。
(8)電子文字文化圏に対するものとして印刷文字文化圏を置くが、マクルーハンの言葉を借りれば、それは"グーテンベルク銀河系"とされる。M.マクルーハン,森常治訳,『グーテンベルクの銀河系』,みすず書房,1986年。活字文化の未来について、紀田順一郎,「活字500年の興亡」,『よむ』7月号,1993年,3頁以下参照。
(9)松岡正剛,『情報の歴史』,NTT出版,1990年,33頁。
(10)庄司淺水・吉村善太郎,『目でみる本の歴史』,出版ニュース社,1984年,349頁以下。
(11)庄司淺水・吉村善太郎,『目でみる本の歴史』,出版ニュース社,1984年,350頁。
(12)庄司淺水・吉村善太郎,『目でみる本の歴史』,出版ニュース社,1984年,351頁。
(13)庄司淺水・吉村善太郎,『目でみる本の歴史』,出版ニュース社,1984年,353頁。
(14)「北宋時代に発明された火薬・活版印刷術・羅針盤を三大発明とよび、後漢時代に発明された紙を加えて四大発明という。これらはヨーロッパに先んじて発明実用化され、イスラム文化圏を通じて中世ヨーロッパに伝播し、ヨーロッパ文化に多大の影響を与えた。」『現代用語の基礎知識CD-ROM版1992年版準拠』,自由国民社。
(15)田屋裕之,『電子メディアと図書館』,勁草書房,1989年,2頁。「伝説めいた話だが、グーテンベルクが活版印刷術を発明したとき、彼は、それまでの一冊一冊手書きで作る本作りから解放され、安い本が早くできる喜びと同時に、人の心を傷つける悪書の氾濫が心配になり、一時は印刷術発明の公表を思いとどまろうとしたが、一大決心をもって、何よりも先に「書物の中の書物」といわれる『聖書』の印刷に取りかかった、という。それが一般に本文の組が42行2段であるところから「42行聖書」とか「グーテンベルク聖書」の名で知られる、ラテン語の『聖書』(1455年?刊)である。」『朝日百科世界の歴史14-15世紀E』,1991年,E-386頁。グーテンベルクが活版印刷術を発明したという史実についてもいろいろな議論がある。富田修二,『グーテンベルク聖書の行方』,図書出版社,1992年,207頁以下参照。
(16)活版印刷術は、1465年から1480年の間に、ドイツはもとよりヨーロッパ各地に広まったとされる。このころ印刷された本(incunabula)の内訳は、宗教書45%、文学書30%、法学書10%、科学書10%、その他5%であり、4分3がラテン語で刊行された。『朝日百科世界の歴史14−15世紀E』,1991年,E-390,E-393頁。
(17)M.マクルーハン,森常治訳,『グーテンベルクの銀河系』,みすず書房,1986年,201頁。
(18)田屋裕之,『電子メディアと図書館』,勁草書房,1989年,10-11頁。
(19)後方一致検索とは、たとえば、法則性、一貫性、感性といったように単語の末尾に"性"がつく単語を検索することである。中間一致検索は、単語を構成する文字中に特定の文字が含まれているものを検索することである。完全一致検索とは、検索する語と検索された語が完全に一致する検索であり、たとえば、"民事訴訟"という語で検索した場合、完全一致するのは無論"民事訴訟"のみであり、"民事"、"民事訴訟法"、は検索される語にはならない。
 印刷文字文化圏では、情報整理のインデクッスとしてあいうえお順、とかアルファベット順といった整理区分を用いている。実はこれは、前方一致検索の為の整理区分でしかない。後方一致検索には、このインデックスは意味をなさない。あまりにもこの区分に慣れてしまっているため、この区分がなされることが整理された情報と未整理情報との区分のような錯覚をうける。書かれた文字ではこれが最善の検索区分だからである。しかし、後方一致検索および不完全一致検索を可能とする電子文字文化圏では、アルファベット順といったソートは意味がない。コンピュータによる電子文字検索の世界では、情報データの区分としては、意味内容による区分が意味を持ち、表題の語順という情報データは意味がない。情報に区分があるとしたら、それは内容による階層的区分であろう。
(20)辞書の大きさに制限がなくなることも特徴となる。これまでの辞書は、人間が利用するという前提から、人間工学的に制約をうけてきた。例えば、辞書は本の一種として考えられたから人間が手に取って頁をめくるという制約から、辞書の厚さ、重さ、大きさに制約があった。よって、辞書は当然のこととして、たとえば法学の辞書は一冊に収まる形態をとるが、そのなかには化学用語の説明はない。それは、印刷文字文化圏では当然のことと考えざるを得ないが、複数の分野にわたって言葉の意味を調べることは語義・用法を調べるのに大きな意味を持つ。電子文字文化圏の辞書には辞書の大きさに制限はなく、あらゆる分野の辞書を一つにすることができる。もう可搬性といった制約は考慮する必要はないのである。
 広辞苑を毎日持ち運びする者はいない。中学生が英語の予習をするのにOED(Oxford English Dictionary)を使って調べはしない。持ち運べる辞書はコンパクト故に収録語数は少ない。これらは、すべて人間工学的制約から生じてきた辞書というものの仕様なのである。印刷文字文化圏の辞書は使う用途に応じて作られたという側面よりも、そうしなければ物理的に不可能であったという面が強かった。よって、医学事典、法律学事典、ことわざ事典のように細分化されてしまった。電子文字文化圏の辞書ではこれらすべてが一つになり、複数の分野にまたがる用語検索が可能である。辞書を引く人間が検索のレベルを選択すれば、必要な情報は多くの関連情報とともに引き出せるのである。電子文字化された辞書については、紀田順一郎,「新時代の辞書に望む」,『言語』6月号,1993年,14頁以下参照。
(21)図書館の未来については、次のような予測がなされている。
 (a)図書館は今日行っているサービスとほぼ同じ型のサービスを行う。しかし、その内  部機能については、マイクロ形態による蓄積、コンピュータの応用など、テクノロジ  ーによって大幅に改善され、また今日よりずっと多様な資料を取扱うことになる。
 (b)コンピュータと電気通信によって、ネットワーク活動が容易になり、総体としての  図書館サービスの効率と対費用効果が改善され、全図書館が広大な全国的図書館資源  に効率的にアクセスできるようになる。
 (c)紙の印刷物への依存を低くしてゆくか、もしくはなくしてしまい、主に機械可読形  態の情報資源を取扱うようになる。
 (d)テクノロジーによって図書館が直接オフィスと家庭にサービスを配送できるように  なってゆき、その結果図書館に訪れる必要性は減少する。
 (e)どの場所に情報資源があっても、電気通信を使って個人で直接アクセスできるよう  になると、地域の図書館は重要性を実質的に失うか、あるいは消滅する。電子形態で  自分の個人情報ファイルを作成し、蓄積することができるようになる。
 (f)個人はオンラインの「知的コミュニティー」のメンバーになる。オンライン・ネッ  トワークによって文章やそれ以外の形式による多彩な情報資源にアクセスでき、また  個人の情報(電子郵便、コンピュータ会議)にも同じようにアクセスできるようにな  ると、正式のコミュニケーションと非公式のコミュニケーションとの間の差異があい  まいになってゆく。
 (g)質問に対して直接(別の情報源を利用者に案内するのではない)回答するデータバ  ンク問合せ機能や、質問に対する回答を推論さえする新しい情報サービスの機能が出  現する。
 F.W.ランカスター,田屋裕之訳,『紙からエレクトロニクスへ 図書館・本の行方』,日外アソシエーツ,1987年,144-145頁。
(22)マルティメディア(Multimedia)は次の意味をもつ。(a)二つ以上のメディアを利用する広告プロモーション。多くの場合、主要媒体とそれを補完する媒体の統合が考慮されている。(b)これまでのマスメディアとコンピュータが融合したもので、コンピュータのもつ情報の処理・蓄積・伝達の機能を有し、文字・静止画・映画・音声などの表現手段を使ったコミュニケーション可能のメディアがマルティメディアである。『現代用語の基礎知識CD-ROM版1992年版準拠』,自由国民社。
(23)もうすでに、『電子ブック版 広辞苑 第四版』,1992年では、鳥の鳴き声を聴くことができる。
(24)現在のパーソナル・コンピュータでもビデオ画像を文書に張り付けることは簡単である。Apple社のマッキントッシュというパーソナル・コンピュータ上で動く"QUICK TIME"が有名である。
(25)黒崎政男,「電子テキストが哲学を変える」,朝日新聞1993年3月10日夕刊,13頁参照。
(26)「1978年9月から1979年11月までの期間、アメリカで122人の専門家によって電子出版の成長予測について、デルファイ法に基づく調査が行われた。この調査は、全米科学財団の資金を得て、イリノイ大学図書館学大学院が行ったものである。その調査は、2000年までにどの印刷物がどの程度電子的形態に転換するのか、それ以降でどうか、あるいは紙のまま存続し続けるのかについて、参加者が自分の意見を述べる、という形で行われた。
 また、この調査のコメントとして、これらの予測は世界中の出版物の生産についての予測であるため、アメリカに限定して調査を行っていれば、予測されたこの傾向が、さらに早くなるはずであると付け加えている。」田屋裕之,『電子メディアと図書館』,勁草書房,1989年,4-5頁。
(27)黒崎政男,「哲学者クロサキの特別講義 ハードディスク上のカント」,月刊アスキー1993年8月号,357頁参照。
(28)写本の時代の法律学と活版印刷術発明以後の法律学にどれだけの差異があるかを詳述することは私の能力を越えたものであり、本資料の守備範囲外である。しかし、その両者にどれだけの差異があるかは、今の法律学が中世のスコラ学的法学とは内容を異にしていることでも理解できる。いくつか例を挙げてみよう。まずメイトランドは次のように15世紀イングランドを叙述している。「新しくより著述による時代は、15世紀後半に始まっているように思われる。16世紀においては、多くの有名な法律家たちは、判決された事例の判例集を出版したり、古い判例集の『要録(abridgments)』を作成したりすることで、彼らの名声を増した。」(メイトランド,森泉章監訳,『イングランド法史概説』,学陽書房,1992年,120頁)。さらに、シュロッサーは、イタリア学風とフランス学風を対比させながら、人文主義の影響を述べている。人文主義とルネッサンスをその基礎とし16世紀より、それまでのイタリア学風(mos italicus)のスコラ学的法学に敵対し始めたのがフランスの人文主義法学(humanistische Jurisprudenz)であるとする。「フランスの法学的人文主義は、イタリア学風の克服、すなわち注釈によって確定的に書き上げられたテキストに厳格に縛られることを克服するのに大きな役割を果たした。…中略…人文主義法学の改革的要求およびその新しい解釈方法とは、結局16世紀におけるヨーロッパ法発展の様式的新段階、すなわち現代的慣用(Usus Modernus)に導いたのである。」(H.シュロッサー,大木雅夫訳,『近世私法史要論』,有信堂,1993年,43,45頁)。碧海純一・伊藤正巳・村上淳一,『法学史』,東京大学出版会,1976年,101頁参照。
(29)伊藤博文,「コンピュータ法学(CaLS)の可能性」,豊橋短期大学研究紀要第10号,1993年,202頁。
(30)アップロードとは、あらかじめ作成されたファイルをコンピュータ・ネットに一括して転送することである。その逆に、ネット上のホスト・コンピュータから情報を端末機に転送することがダウンロードである。
(31)「判決のコンピュータ化」,法学セミナー4月号,1974年,37頁;辛島睦,『情報化社会における判例へのアクセス』,ジュリスト995号3頁,1992年参照。
(32)図書館間のネットワーク化は、日本においては文部省の大学共同利用機関として創設された学術情報センター(NACSIS)(以下学情と略す)を中心におこなわれつつある。現段階でも、学情の提供する目録所在データベース(和図書),JBCATでもって、学情ネットワークに参加している大学図書館等に所蔵される和図書の目録をすべて検索することができる。平成3年8月末日のデータとして、その所蔵数324万件である。洋図書は所蔵数227万件、和雑誌は所蔵143万件、洋雑誌は89万件である。
(33)斬馬剣禅,『東西両京の大学』,講談社学術文庫,47頁。
(34)文部省は1989年3月に告示した小学校、中学校、高校の新しい学習指導要領で、家庭、技術、理科、数学などの教科でコンピューターの活用を打ち出した。学校によっては、すでに、CAI(コンピューター利用教育)を実験的に取り入れているところも少なくない、とされる。「コンピューターに揺れる教育現場 新学習指導要領で本格導入へ」,1989年4月7日朝日新聞 朝刊16頁。
(35)アメリカにおいては、法学教育にコンピュータを取り入れようとする活動が、CALI(Computer-Assisted Legal Instruction)という運動で展開されている。CALIセンターは、1971年に始まったミネソタ・ロースクールとハーバード・ロースクールの協力関係を継続、発展させるため1982年に設立された。この活動の当初の主眼は、ロースクールのカリキュラムにおいて使用されるコンピュータによる練習教材とその練習教材を共有するコンピュータ・ネットワークを開発することにあった。その目的として以下のものがある。(a)コンピュータによる学習教材の提供とその利用を推進すること。(b)新しい教育用プログラムを開発する者を支援すること。(c)練習教材の質と効率性を高めるための研究を財政的に支援すること。(d)ハードウェア、ソフトウェア、コースウェアの基準を定立すること。(e)法学教育と法におけるコンピュータ利用に関する情報の共有を支援促進すること。
(36)「情報化社会の未来に対しては、明暗二つの見方がある。一つは各人の自由意志に基づく契約で成立する自由契約社会、あるいは人間の知的創造が一般的な開花をもたらす高度知的創造社会といった人間本位社会を想定するもので、これは、超技術社会ないし文明後社会といった構想につらなる未来思想である。これに対し、もう一つは、管理社会あるいはオートメーション国家といった少数エリートのコンピュータによる大衆が支配、疎外、機械化され、システム化された社会の出現を危惧する未来思想である。」『現代用語の基礎知識CD-ROM版1992年版準拠』[情報社会]。