Feist出版社 対 Rural電話サービス会社
(Feist Publications v. Rural Telephone Service)
No. 89-1909

合州国連邦最高裁判所

499 U.S. 340; 111 S.Ct. 1282; 1991 U.S. LEXIS 1856; 113 L.Ed. 2d 358; 59 U.S.L.W. 4251; 18 U.S.P.Q.2D (BNA) 1275; Copy.L.Rep.(CCH)P26,702; 68 Rad.Reg.2d (P&F) 1513; 18 Media L.Rep. 1889; 121 P.U.R.4th 1; 91 Cal.Daily Op.Service 2217; 91 Daily Journal DAR 3580

1991年1月 9日 審理
1991年3月27日 判決


先行経緯: 第10巡回区控訴裁判所へ裁量上訴

措置: 916 F.2d 718 判決を破棄

概要: 被上告人Rural電話サービス社は、カンザス州でいくつかの地域に電話サービスを供給する免許を持った公共事業体である。州規制に従い、Rural社はホワイトページとイエローページから成る一般的な電話帳を出版している。Rural社は、電話サービスを得るためには自らの名前と住所を連絡しなくてはならない電話加入者から、その区域の加入者データを得ていた。上告人Feist社は、営業区域がRural社の区域よりずっと地理的に大きい地域をカバーする電話帳を専門にする出版会社である。Feist社が11の電話サービス地域をカバーする一冊の電話帳を作成しようとした時、Rural社のホワイトページのリストを使用するライセンス許諾をRural社はFeist社に対して認めなかったので、Feist社はRural社の同意無しでRural社の電話帳から自らが必要としたリストを抜き出した。Feist社はRural社のリストのかなりを変えたけれども、いくつかはRural社のホワイトページ中のリストそのままであった。地方裁判所(District Court)は、電話帳が著作権法上の保護対象であると判示し、当該著作権侵害訴訟に於いて、Rural社に正式審理を経ずに訴の却下を認めた。控訴裁判所(Court of Appeals)も控訴棄却した。

判示: Rural社のホワイトページは著作権法上の保護対象とならない。それ故にFeist社によるそれらの使用は著作権法違反とならない。499 U.S. 340,344-364頁。


(a)合州国憲法第1条第8節8項が、著作権保護のための要件として、オジリナリティを要求している。憲法が求める要件は、何らかの創造性に加えて独自の創造を求めている。事実は、その起源を著作者の行為に依るのではないので、オリジナルなものではなく、よって著作権保護対象とならない。著作者は通常、どのような事実を含ませるか、どのような順序で並べるか、読者が効率的に使用できるようにはデータをどのようにアレンジするかにおいて選別を行っているのであるから、単なる事実の集積も必要とされるオリジナリティを持ちうるかも知れないが、著作権の保護範囲は、作者のオリジナルな作品からなるものにのみ及び、事実そのものに及びはしないのである。この"事実/表現"二分法は、事実に基づく作品の保護範囲を厳しく制限するものである。(499 U.S. 340,344-351頁)

 (b)1976年の著作権法および、この前法であった1909年の著作権法は、オリジナリティが、電話帳および他の事実に基づく作品を著作権法上保護するか否かの試金石であることしていることは疑いがない。1976年の著作権法は、著作権が「著者のオリジナルな作品」に及ぶと説明しており(17 U.S.C. 102条(a))、単なる事実には著作権はないと説明している(102条(b))。データの集積はそれだけで著作権保護となるわけではなく、その事実が「生まれてきた作品が全体として作者のオリジナルな作品を形作るような方法で、選択し、仕訳し、配列」(101条)されたような場合のみ著作権保護の対象となる。したがって、当該制定法は、データを選択、仕訳、配列するいくつかの方法だけでは著作権保護の対象とするには十分でないと想定してるのである。著作権保護の対象となる編集物でも、制限付きの保護を受けるだけであり、著作権は編集物の中に含まれる事実には及ばないのである(103条(b))。下級審は、「額に汗」とか「勤勉な収集」テスト---これらは事実そのものへの選択・配列を越えたところまで編集物の著作権保護範囲を拡大するものである---は、1909年著作権法を誤って解釈したものであり、事実やアイデアを著作権保護できないという著作権法の基本的な法理を無視したものである。(499 U.S. 340,351-361頁)

 (c)Rural社のホワイトページは、著作権保護のための憲法もしくは制定法の要件を満たしていない。Rural社はその電話帳が、イエローページの中にあるいくつかの見出し語やオリジナルなものを含んでいるのであるから、全体として明白な著作権を持つとしているが、Rural社のホワイトページにはオリジナルなものは何もない。
 生のデータは、著作権保護の対象とならない事実である。そしてRural社が事実を選択、仕分、配列した方法は全くオリジナルなものではない。Rural社のリストに挙がったもの---電話加入者名、町名、電話番号---は、より明白なものではなく、単なる選別を著作権保護対象となる表現へと変化させるのに必要な何らかの創造性を欠いている。実際の所、Rural社は電話加入者名と電話番号を出版するように「選択」したのではないと結論づける方が正しいであろう。なぜならばそのようにする事を州法により要求されていたからである。さらに、ホワイトページの電話帳においてアルファベット順に名前を配列することにおよそ創造性というものは無い。それは、しっかりと伝統に根づいた古くからのやり方であり、当然のこととして予想されるありふれたことなのである。(499 U.S. 340,361-364頁)


弁護士:上告人側 Kyler Knobbe弁護士が上告人の為に訴の理由を述べ書類を提出。
被上告人側 James M. Caplinger, Jr.弁護士が被上告人のために理由を述べ書類を提出。

裁判官:オコーナー判事が法廷意見を述べた。レンキスト主席裁判官、ホワイト判事 、マーシャル判事 、スティーブンス判事 、スカリア判事 、ケネディー判事、スーター判事は法廷意見に同意。ブラックマン判事は判決文に同意。

 オコーナー判事による法廷意見


 本訴訟は当法廷に、電話帳であるホワイトページに適用すべき著作権保護範囲を明確にすることを求めている。


T


 Rural電話サービス社は、カンザス州北西部で数地域に電話サービスを供給することを許可された公共事業体である。当該会社は、カンザス州で営業するすべての電話会社が毎年更新した電話帳を発行することを義務づける州規制に従わなければならなかった。つまり、その独占的営業権の条件として、Rural社はホワイトページとイエローページから成る典型的な電話帳を出版しているのである。そのホワイトページは、町名と電話番号と共にアルファベット順でRural社の電話加入者の名前をリストアップしている。またイエローページはアルファベット順にRural社の事業者用電話加入者を分野別にリストアップし、項目別で様々な大きさの営業広告を売り物にしている。Rural社は、自らの電話加入者に無料でその電話帳を配布し、イエローページで営業広告を売ることによって収益を上げていた。
 Feist出版社は、区域規模の大きい電話番号帳を専門に扱う出版会社である。特定の通話エリアのみをカバーする典型的な電話帳と異なり、Feist社の広域電話帳は、地理的により広い地域をカバーするものであり、電話番号案内や複数の電話帳を参照する必要性を削減できるものであった。本件で問題となっているFeist社の電話帳は15の郡における11の異なった電話サービス区域をカバーしており、46,878件ホワイトページに掲載があり、これに対しRural社の電話帳は約7,700件の掲載であった。Rural社の電話帳と同様、Feist社の電話帳も無料で配布され、そしてホワイトページとイエローページ両方を含むものであった。Feist社とRural社は、イエローページ広告業で精力的に互いに競争しあっている。

 電話サービス地域における唯一の供給者として、Rural社はいとも簡単に電話加入者情報を得ている。電話サービスを希望する者はRural社に申し込み、自らの名前と住所を教えなければならないのである。それからRural社は、その者達に電話番号を割り当てているのである。Feist社は、専売的地位を持っていないのは言うまでもなく、いわゆる電話会社ではなく、よっていかなる電話加入者情報にも独自にアクセスすることは無かった。広域規模の電話帳作成のためにホワイトページに掲載されているリストを入手しようとして、Feist社は、カンザス州北西部で営業する11の電話会社の一社一社と接触し、そのホワイトページを使う権利に対して支払を申し出た。

その11の電話会社のうち、Rural社だけがFeist社に掲載データをライセンス供与することを拒否した。 Rural社の拒否は、Feist社にとって問題であった。というのも、Rural社のリストを欠くことは広域規模電話帳の中に大きな穴を空けることとなり、潜在的にいるイエローページ広告主にとって魅力のない電話帳になってしまうからである。当法廷がここで検討している判決よりも後の判決において、当該地方裁判所は、これがまさにRural社がそのリストのライセンス供与を断った理由であったと判示している。その拒絶は「電話供給サービスにおける独占をイエローページ広告業での独占へと広げよう」という不法な意図によって動機づけられたものである。(Rural Telephone Service Co. v. Feist Publications Inc., 737 F.Supp 610,622頁(Kan.1990年)参照)

Rural社のホワイトページリストの使用許諾を得ることが不可能となり、Feist社は、Rural社の同意無しでそのリストを使用した。Feist社は、自らの広域規模電話帳の中で地理的範囲から外れる数千のリストを取り去ることから始めて、残った4,935のリストを実地調査するために人員を雇った。これらの従業員はRural社によって作成されたデータを検証して、そして付加的情報を得るように努めた。この結果として、一般的なFeist社のリストは、個人の住所番地を含むものとなったが、Rural社のリストにはこれが無かった。しかしながら、これらの付加的情報があったにもかかわらず、1983年のFeist社電話帳中の46,878のリストの1,309件が、Rural社の1982-1983年ホワイトページのリストと全く同一であった(App.54(15-16段)57頁参照)。これらリストうちの4件は、Rural社が複製を見つけ出すために電話帳に挿入していた架空のリストであった。

Rural社は、Feist社が電話帳を編集するにあたりRural社のホワイトページに含まれている情報を使うことは許されないという主張で、カンザス州地方裁判所に著作権侵害の訴を提起した。Rural社は、同じ情報を見つけ出すためには、Feist社の従業員が一軒一軒歩き回るか、自らが電話番号聞き取り調査をしなければならなかったと主張した。Feist社は、そのような努力は、金銭的に実現不可能であり、結局の所、複製した情報は著作権法の保護範囲を越えているのであるから、そのような努力は不必要であると、答えた。地方裁判所は、「裁判所は一貫して、電話帳は著作権保護されると判示してきている」と説明して、下級審の判決(663 F.Supp.214,218頁(1987年))の流れを引用して、Rural社に正式審理を経ない訴の却下を認めた。第10巡回区控訴裁判所は、公表されなかった判決理由中で、「地方裁判所による理由づけで十分である」として、一審を支持した(裁量上訴を求めた控訴審4aの判決は916F.2d 718(1990年)に掲載)。当法廷は、Rural社の電話帳中の著作権が、Feist社によって複製された名前、町名、電話番号を保護範囲とするか否かを決定するために裁量上訴(498 U.S. 808(1990年))を認めた。


          II



          A


 本件は、揺るぎない2つの法理が相互に対立し合うことに起因する事件である。まず一つは、事実は著作権保護の対象とならないということであり、もう一つは、事実の編集は一般に著作権保護されるということである。この法理それぞれが非の打ち所のない系譜を持っている。事実には明白な著作権が存在し得ないことは広く理解されている。著作権法の最も基本的な公理は「作者は自分のアイデアあるいは自分が語った事実を著作権保護し得ない」ということである(Harper & Row, Publishers,Inc v. National Enterprise, 471 U.S. 539,556頁 (1985年)参照)。Rural社は、「事実と発見は、当然のこととして、著作権保護の対象とはならない」と提出書面の中で指摘しつつ、この点を賢明にも認めている(被上告人側の提出書面24)。しかしながら、これと同時に、事実の編集物が著作権法の主要問題であることも論を待たない。編集物のことは、1909年の著作権法で明確に述べられており、そしてこれは1976年の著作権法でも明確に述べられている。
 これら2つの法理の間に否定し難いぶつかり合いがある。多く編集物は、生のデータ以外の何ものでもなくそのものから、たとえば、オリジナルに書かれた表現を伴わないで完全に事実に基づく情報から、成り立っている。そのような作品においては、どのような根拠に基づいて著作権を主張し得るのか? 常識から考えて、100の著作権保護対象とならない事実が、一カ所に集められたとしても、魔法のようにその姿を変えはしないことをわれわれは知っている。それでも著作権法は、全く事実からのみ成り立つ編集物も元来著作権法の範疇であるということを熟慮しているように思われる。

 このぶつかり合いを解きほぐす鍵は、なぜ事実が著作権保護されないかを理解することにある。著作権のありやなしやを判断するのはオリジナリティである。著作権保護の対象となるためには、作品が作者にとってオリジナルなものでなければならない(前掲判決Harper & Row 547-549頁参照)。著作権法上用いられる用語として、オリジナルとは、作品が作者によって独自に創作されたこと(この反対が他の作品から複製されたこと)、のみを意味する。そしてそれは、少なくとも何らかの度合いにおいて創造性を有するということを意味する(1 M. Nimmer & D Nimmer,Copyright §§2.01[A][B](1990年)(以下Nimmerと略す)参照)。確かに、必要とされる創造力のレベルは非常に低い。わずかな量でも十分であるとなろう。大多数の作品は、「いかに地味であったり不格好であったり目立つもの」であるにせよ、なんらかの創造的な才気というものを有しているときには、いとも簡単に判断できるのである(前掲書§1.08[C][1]参照)。オリジナリティは目新しさを意味しない。同一性が複製の結果でなく偶然のものであるならば、ある作品が別の作品と極めて似ていても、その作品はオリジナルと言えよう。例を挙げよう。互いに未知の2人の詩人が全く同じ詩を作ったとしよう。どちらの作品も新奇なものではないが、両方ともオリジナルなものである。よってその詩は著作権保護されるのである(Sheldon v. Metro-Goldwyn Pictures Corp., 81 F.2d 49, 54頁(CA2 1936年)参照)。

 オリジナリティは憲法が求める要件である。著作権法を制定する議会の権原は、合州国憲法第1条第8節8項であり、この条項が「著作者に一定の期間・・・著作それぞれに対する独占的権利を確保せしめる」権限を議会に与えているのである。19世紀末以来の2つの判例、The Trade-Mark Cases判決(100 U.S. 82(1879年))とBurrow-Giles Lithographic Co. 対 Sarony判決(111 U.S. 53(1884年))において、当裁判所は、重要な用語である「著者」と「作品」を定義した。そこにおいて、当裁判所は、これらの用語がオリジナリティの一定限度を前提としていることを間違いなく明確にしたのである。

 The Trade-Mark Cases判決で、当裁判所は「作品」の憲法上の範囲について論じた。特定の作品が「著作者の作品という項目の下」で分類されるには、「オリジナリティが必要とされる」と当法廷は判示した(100 U.S. 94頁)。当法廷は、オリジナリティは何らかの創造性に加えて独自の創造を必要とすることを説明した。「作品という言葉は、彫刻、印刷物等へのオリジナルなデザインを含むように、自由に解釈が可能であり、またそのように解釈されてきたが、このようなものだけがオリジナルなのであり、かつ創作精神における創造力の中に見いだされるものが作品なのである。保護されるべき作品は知的労働の成果であり、本や印刷物、彫刻等々といった形の中に具現化されるものである。」(上記判決)。

 Burrow-Giles判決で、当裁判所は合州国憲法の用語「著作者」から同様の要件を引き出した。当裁判所は、憲法における意味として、「著作者」は「すべてのものの起源が帰する人、創作者、製造者」と定義した(111 U.S. 58頁参照)。The Trade-Mark Cases判決におけるように、当裁判所は、オリジナリティにおける創造的な構成要素を強調した。そこでは「著作者のオリジナルで知的な着想」に著作権は限定されると述べられたのである(111 U.S. 58頁参照)。そして、著作権侵害で他人を訴える著作者は「オリジナリティ、知的生産活動、思考、着想についての事実の存在」を証明することを求めることの重要性を強調したのである(同判決59-60頁) 。

 The Trade-Mark Cases判決とBurrow-Giles判決において明らかとなったオリジナリティの要件は、今日の著作権保護の試金石として生き続けている(Goldstein v. California, 412 U.S. 546, 561-562頁(1973年)参照)。それは、まさしく「著作権法の前提」である(Miller v. Universal City Studios, Inc., 650 F.2d 1365,1368頁(CA5 1981年)参照)。第一線の学者達もこの点について同意している。2人の共著者がそれを簡潔に述べている。つまり「オリジナリティの要件は、憲法上、あらゆる作品に対して求められる」のである(Patterson & Joyce, Monopolizing the Law: The Scope of Copyright Protection for Law Reports and Statutory Compilations, 36 UCLA L. Rev. 719, 763頁、註155 (1989年) (以下Patterson & Joyceと略す)参照。同意見、前掲書759-760頁と註140。Nimmer §1.06[A] (「オリジナリティは、憲法上と同様制定法上の要件でもある」)。前掲書§1.08[C][1] (「なんらかの知的生産は・・・明らかに憲法上要求される要素を構成する」))。

 法が事実と事実の編集を外見上は異質として扱うことを要求するのは、この著作権法の根本原理である。「誰も事実に対してと同様、オリジナリティに対して権利主張はできない」(前掲書§2.11[A]2-157頁)。これは、事実は己の起源を著作者の行為に依らしているのではないからである。違いは創造と発見の間にある。特定の事実を見つけ出し報告した人は、事実を作ったのではない。その人は単にその存在を発見しただけである。Burrow-Giles判決から引かせていただくと、事実を発見する人はその「製造者」あるいは「創作者」ではない。(111 U.S. 58頁)「発見者はただ単に見つけて報告するだけである」(Nimmer §2.03[E]参照) 。たとえば、人口統計調査を行う者は、自らの努力から生み出される人口統計数を「作り出し」ているのではない。ある意味で、その者達は周りの世界からこれらの統計数字を複製しているのである(Denicola, Copyright in Collections of Facts: A Theory for the Protection of Nonfiction Literary Works, 81 Colum. L. Rev. 516, 525頁(1981年) (以下Denicolaと略す))。したがって、人口統計調査データは憲法解釈の意味において「オリジナル」ではないので、著作権を生ぜしめないのである(Nimmer§2.03[E]参照) 。同様の事は、科学上、歴史上、伝記上、日々のニュースといった、あらゆる事実についても当てはまるのである。「それらは著作権保護の対象とならず、あらゆる人が利用できるパブリック・ドメインの一部なのである。」(Miller 前掲判決1369頁参照)。

 一方において、事実の編集は必要とされるオリジナリティを持つこともある。編集をする著作者は、一般に、読者が最も効率よく使えるようにと、どのような順序で事実を並べるか、集めたデータをどのように配列するかを考えて、いかなる事実を含ませるか選択を行う。選択および配列についてのこれらの判断は、編集者によって独自になされ最小限度の創造性を伴うものである限り、これらの判断は、議会がそのような編集を著作権法の下で保護するのに十分であると考えるオリジナリティを持つのである(Nimmer§§2.11[D],3.03;Denicola 523頁、註38参照)。したがって、事実だけといったまったく保護されないような表記された表現をも一切含まず、ただ事実のみを含む電話帳であっても、それがオリジナルな選択と配列で特徴づけられているのであれば、著作権保護のために憲法が要求する最低限のものに合致するのである(Harper & Row,471 U.S., 547頁参照。同旨Nimmer§3.03)。

 この保護は一種の重要な制限を受けている。一つの作品が著作権保護されているという単なる事実は、その作品のあらゆる要素が著作権保護されているという意味ではない。オリジナリティは、ここでも著作権ありやなしやの判断基準である。したがって、著作権保護は、作品中で著作者のオリジナルな構成要素までのみ拡大され得るのである(Patterson & Joyce 800-802頁参照。Ginsburg, Creation and Commercial Value: Copyright Protection of Works of Information, 90 Colum. L. Rev. 1865, 1868頁と註12 (1990年) (以下Ginsburgと略す))。よって、編集著作者が事実に言葉のオリジナルな配列を与えたならば、編集著作者はこの書かれた表現の中で著作権を主張できるであろう。他の人達はその出版物から隠された事実を複製し得るが、事実を表すのに用いられた適切な言葉は複製できないのである。たとえば、Harper & Row判決において、フォード大統領は他人が大統領の自叙伝から単なる歴史的事実を複製するのを止めさせることはできない(471 U.S. 556-557頁参照)、しかし大統領の「主観的な表現描写と公人としての肖像」は禁ずることができると、説明したのである(同判例563頁)。編集著作者が全く書かれた表現を加えず、ただ事実そのものに語らせようとした場合は、表現的な要素がいっそう捉え難くなる。捉えられる唯一の表現は、編集者がその事実を選択し配列した手法である。よって、もし選択と配列がオリジナルであるなら、その作品中のこれらの要素は著作権保護に値する(Patry, Copyright in Compilations of Facts (or Why the "White Pages" Are Not Copyrightable), 12 Com. & Law 37, 64頁(Dec. 1990年) (以下Patryと略す)参照)。しかしながら、いかに形式がオリジナルであるにせよ、事実のそのものが組み合わせによりオリジナルになることはないのである(Patterson & Joyce 776頁参照)。
 これは必然的に、事実を編集したものにおける著作権が希薄であることを意味する。明らかに著作権があるとしても、先行者に続く編集者は、市場で互いに競い合う作品が、事実に対する同じ選択と配列を特徴としない限り、この競い合う作品を作成するために他人の出版物に含まれる事実を自由に使い続け得るのである。1人の評者が次のように説明している。「いかにオリジナルな著作であるとその作品が示そうとも、その作品が提示する事実やアイディアは自由に利用できるのである。・・・・たとえ著作者が一番最初に事実を発見しアイディアを提案したのであっても、全くおなじその事実とアイディアは、著作者が作り出した文脈から切り離され、換言されたり、後から来た者によって入れ替えられ得るのである。」(Ginsburg 1868頁参照)。
 編集者が労働して得た成果の多くを他人が何ら補償もなしに使いうるとするのは不公平に思われるかも知れない。しかしながら、ブレナン判事が正しく考察したように、これは「制定法による制度から生ずる思いがけない副産物」ではないのである(Harper & Row,471 U.S. 589頁(反対意見)) 。それは、むしろ「著作権の本質」(同上)であり、憲法が求める要件である。著作権の第一目的は、著者の労働に報酬を与えることではなく、「学術および技芸の進歩を促進すること」である(合州国憲法第1条第8節8項。同意見,Twentieth Century Music Corp. v. Aiken, 422 U.S. 151,156 (1975年))。この目的のために、著作権法が著作者のオリジナルな表現に権利を保証するが、作品によってもたらされるアイディアや情報の上に、自由に組み立てることを奨励しているのである(前掲書Harper & Row, 556-557頁)。この原則は、"アイディア/表現"あるいは"事実/表現"の二分法として知られており、すべての著作者の作品に当てはまる。事実の編集に適用するときにオリジナルに書かれた表現が無い場合は、編集者の選択と配列が保護され得る。単なる事実は自由に複製可能なのである。この結果は不公平でも不幸でもない。これが、著作権が学術および技芸の進歩を促進させる手法なのである。
 当裁判所は長い間、"事実/表現"の二分法が、事実に基づく作品の保護範囲を厳格に制限するものと考えてきた。1世紀以上前に、当裁判所は、「科学あるいは有用な技芸についての本を出版する真の目的は、その本が持つ有用な知識を世界に伝達することである。けれども、その本の剽窃という罪悪感を起こさずにはその知識が使えないとするならば、この目的は挫折してしまうであろう。」(Baker v. Selden, 101 U.S. 99, 103 (1880年))。当裁判所は、Harper & Row判決でこの点を繰り返した。「著作者は事実あるいはアイディアに対して著作権を主張できない。その著作権は、『表現』という言葉に表されるように、著作者のオリジナリティの刻印を示す作品の様相に限定されている。」
 「著作権は、後の使用者が先行した著作者の作品からオリジナルでない構成要素---たとえば、事実とかパブリックドメインの資料---を、この使用が著作者のオリジナルな貢献を不当に独り占めしない限りは、複製するのを妨げないのである。」(471 U.S. 547-548頁(引用は除く))。
 この時、これが法理の矛盾を解決するのである。著作権は恒に一貫した方法でもって、事実と事実の編集を扱ってきている。事実は、単独であるか編集物の一部であるかにかかわらず、オリジナルではなく、よって著作権保護対象とはなり得ない。事実の編集物は、もしそれがオリジナルな事実の選択もしくは配列を特徴としているのであれば、著作権保護対象なる。しかし、その著作権は特定の選択もしくは配列に限定されているのである。著作権は、どんな場合でも、事実そのものを越えては及ばないのである。


B


 当法廷が説明してきたように、オリジナリティは著作権保護のために憲法上要求される要件である。当裁判所がこのルールを宣言した判決は、1909年の著作権法よりも前のことであるが、1909年著作権法のあいまいな表現故に、いくつかの下級審は一時的にこの要件を見失ってしまったのである。
 1909年著作権法は、オリジナリティ要件を規定していたが、それは意図したほど明白なものではなかった(Nimmer §2.01参照)。著作権の主題は同法3条と4条に述べられている。第4条は、「著作者のすべての作品」に著作権が及ぶと規定していた(35 Stat. 1076)。「作品」と「著作者」という言葉を使うことによって、---合州国憲法第1条第8節8項に用いられているのと同じ言葉で、The Trade-Mark Cases判決とBurrow-Giles判決において当裁判所が定義した言葉を使うことによって、当該法が必然的に当裁判所での判決において明らかにしたオリジナリティ要件を含むこととなったのである。しかしながら、暗黙のうちにそのように行われたため、後の誤謬の余地を残してしまったのである。
 第3条も同様にあいまいであった。第3条は、作品の著作権は「その作品の著作権保護可能な構成部分」だけを保護すると述べていた。確かに、それは重要な著作権法理を述べたのであるが、---オリジナリティ---といった、作品のどの構成部分が著作権保護対象となりどの部分がならないかを決める明確な特質を画定できなかったのである。
殆どの裁判所は、不完全な法令の用語にもかかわらず、1909年著作権法を正しく解釈した。裁判所は、当裁判所の判決から、オリジナリティ無くしては著作権保護はあり得ないということを理解したのである(Patterson & Joyce 760-761頁参照)。Nimmerの著作で説明されたように、「1909年著作権法は、オリジナリティを定義もしなかったし、著作権保護を命ずるのに作品が『オリジナル』でなければならないことを明らかに求めていない。しかし、裁判所は一様に、著作権保護は『著作者』によってのみ主張されるという事実から要件を推論したのである。・・・それは、著作者は『創造者、創作者』なのであるから、作品がオリジナルでない限りは作品は著作者の産物ではないということに繋がる。」(Nimmer §2.01(脚注除く)(引用判例である))。
 しかし、いくつかの裁判所はこの制定法を誤って理解した(Leon v. Pacific Telephone & Telegraph Co., 91 F. 2d 484 (CA9 1937年)、Jeweler's Circular Publishing Co. v. Keystone Publishing Co., 281 F. 83 (CA2 1922年)参照)。これらの裁判所は、第3条、第4条を無視し、代わりに第5条に注目したのである。しかしながら、第5条は、その性質からして極めて技術的なものであった。第5条は、作品を登録しようとする者は、作品の形式を登録用紙に明記しなければならないと規定し、そして作品が当てはまるであろう14の分野を掲載したのである。これらの分野とは、「本、複数の要素で構成される百科辞典的な作品、電話帳、地名辞典、他の編集物」といったものであった(第5条(a))。第5条は、すべての編集物が自動的に著作権保護の対象になるという趣旨ではなかった。本当は、「著作権の主題は第4条に定義されている」と指摘し、そのような機能を明白に否定していたのである。それにもかかわらず、事実の編集が第5条に個別に規定されたという事実により、いくつかの裁判所は、「更に詳しくオリジナルで---個人的な---著作であることを示すことなく」ただそれだけで、電話帳などは著作権保護されると誤って推断してしまったのである(Ginsburg,1895頁参照)。

 この問題を更に悪化させたのは、これらの裁判所が事実の編集の保護を正当化する新しい理論を展開してしまったことである。それは「額に汗」とか「勤勉な収集」として知られており、その根底にある考えは、著作権は、事実の編集にも必要である懸命な労働に対する報酬であるというものであった。その理論が古くに形作られたのは、Jeweler's Circular Publishing Co., 281 F. 88 において現われたときである。

 「ある者が出版するために労力を費やした本を著作権保護する権利は、その者が収集した資料が公知(publici juris)となっているものであろうと否とにかかわらず、またそのような資料が、思想もしくは言語において、文学的技法とかオリジナリティを示しているとか、それが勤勉な収集以上のものであることに、依存するのではない。町の通りを歩き住民の一人一人の名前とその職業と番地を書き記す者は、自分が著作権者である資料を獲得するのである。」

 「額に汗」の理論は多くの欠陥を有しており、その最たるものが、編集物の著作権保護を選択と配列を越えて、編集者のオリジナルな貢献、そして事実そのものにまで広げてしまったことである。その理論に依れば、著作権侵害に対する唯一の抗弁は、独自の創造である。後の編集者は、「先に出版された情報の一語たりとも使う権利は無く」むしろ同じ共通の情報源から同じ結果にたどり着くためには「自身でそのものを独自に作り出さ」ねばならないのである(同判決88-89頁)。「額に汗」を取る裁判所は、それによって、著作権法の最も基本的な原理、事実とアイディアは著作権保護対象とならない、を回避してしまったのである(Miller v. Universal City Studios, Inc., 650 F. 2d, 1372頁参照。この判決は「額に汗」を取る裁判所を批判している。なぜならば「後の作家が事実を独自に入手できることを保障することは、・・・著作権保護されたもののまさに保護範囲の問題であり、そして著作権法は、事実はそのような保護には値しないと明白にしているのである。」)

 1909年著作権法を適用した当裁判所の判決は、著作権法が「額に汗」アプローチを認めなかったことを明確にしている。最も良い例は、International News Service v. Associated Press, 248 U.S.,215 (1918年)である。この判決において、当裁判所は、1909年著作権法は著作権者にとってオリジナルな作品の構成要素についてのみ著作権保護を与えていると、曖昧にではなく述べているのである。国際ニュースサービス(International News Service)社は、AP通信(Associated Press)が報道したニュースを使用し、自社の新聞にそれを掲載したことを認めた。著作権法第5条が特別に「新聞を含んだ定期刊行物」(5条(b))と規定していることを認めて、裁判所は、ニュース記事は著作権保護の対象となると判示したのである(同判決234頁)。しかしながら、記事における著作権は、記事に含まれる事実の情報まで及ぶという考えは、きっぱりと否定した。「ニュースの要素---文学的な産物の形でもって時事を重視する情報---は、記者の創造物ではなく、通常は公知(publici juris)である事柄の報告である。それはその日の歴史なのである。」(同上*)。

---------------脚注--------------------
* 裁判所は、ここでは関係のない著作権問題以外の理由によって、AP通信(Associated Press)勝訴の判決を出した(248 U.S., 235,241-242頁参照)。
-----エンド (End) 脚注-----------------

 「額に汗」の理論は、疑いなく、著作権法の基本原理を無視するものであった。歴史を通じて、著作権法は、「フィクションや空想小説といった作品よりも事実に基づく作品を頒布することにより大きな必要性を認められてきた」(Harper & Row, 471 U.S. 563頁。 これと同意見、Gorman, Fact or Fancy: The Implications for Copyright, 29 J. Copyright Soc. 560, 563頁 (1982年))。しかし、「額に汗」を取る裁判所は反対の考えを取ったのである。その裁判所は、事実に専権的利益を認め、著作者が先人の作品に含まれる事実に依拠することで時間と労力の節約を絶対になし得ないように判示したのである。事実、「アイデアや事実から著作権を剥奪することを回避するようにするということは、まさに無駄な努力である。」(Rosemont Enterprises, Inc. v. Random House, Inc., 366 F. 2d 303, 310頁 (CA2 1966年)、裁量上訴却下385 U.S. 1009 (1967年))。「このような研究の成果の保護は、・・・ある特定の状況では、不正競争の理論の下で可能であろう。しかし、この基準のみで著作権保護を調和させることは、『著作者』による『作品』が作り出されることを保護し奨励するのを当然に正当化することなく、パブリック・ドメインにおける資料に独占を生み出すことにおいて、著作権法の基本的原理をゆがめてしまう。」(Nimmer§3.04,3-23頁(脚注削除))。


C


 「額に汗」判決は、著作権局の目から逃れられなかった。議会が、著作権法の総見直しを決定し、著作権局に現存する問題点を研究調査するように依頼したとき(Mills Music, Inc. v. Snyder, 469 U.S. 153, 159頁 (1985年)参照)、著作権局は、議会は著作権保護の基本的判断基準について下級審が混乱している状況をすっきりさせるべきであると直ちに勧告した。著作権登録官は、議会への最初の報告書で「オリジナリティ」が1909年著作権法の下で「基本的な要件」であると説明した。しかし、当該制定法の中に「『オリジナリティ』への言及がなされていないことが、何が著作権保護の対象となるかについて、誤解を招く」と説明したのである(Report of the Register of Copyrights on the General Revision of the U.S. Copyright Law, 第87回議会第一セッション9頁(H. Judiciary Comm. Print 1961年))。著作権登録官は、オリジナリティ要件を明確にすることを提案した(同レポート)。

 議会は著作権登録官の提言を採用した。1976年の著作権法を制定するにおいて、議会は「1人の著作者のすべての作品」に関する箇所を削除し、そして「著作者のオリジナルな作品」と入れ替えたのである(17 U.S.C. 102条(a))。オリジナリティ要件を明確にするにおいて、議会は、既存の法を単に明確にしただけであると公表した。「著作権保護の2つの基本的な基準は、オリジナリティと有形に固定されていることである。敢えて定義しなかった『著作者のオリジナルな作品』という用語は、現行の1909年著作権法の下で裁判所により確立されたオリジナリティの基準を変えることなく条文化することを意図している(H. R. Rep. No. 94-1476, 51頁(1976年)(以後 H. R. Rep.と略す)、S. Rep. No. 94-473, 50頁(1975年)(以後 S. Rep.と略す))。この意見は著作権局によって繰り返された。「この点における我々の意図はオリジナリティの基準を整備することである・・・」(Supplementary Report of the Register of Copyrights on the General Revision of U.S. Copyright Law, 第89回議会第一セッション第6部3頁(H. Judiciary Comm. Print 1965年))。

 「額に汗」を取った裁判所の過ちを繰り返さないために、議会は更なる措置をとった。例えば、1909年著作権法第3条は、著作権は「著作権保護の対象となる構成部分」のみを保護し、オリジナリティを著作権保護される構成部分と保護されない部分を区別する基準として認めていないと規定していた。1976年著作権法はこの条を削除し、第102条(b)で置き換えた。この102条(b)は、「いかなる場合でも著作者のオリジナルな作品の著作権保護は、その作品中で、記されたり、説明されたり、例示されたり、具体化された形式に関係なく、アイデアとか、手順、工程、方式、作業方法、考え、原理、発見にまで及ばない。」として、著作権保護されない作品の要素を個別に確認している。102条(b)は、事実にはいかなる著作権も認めないと一般に理解されている(前掲Harper & Row,547,556頁。同旨Nimmer §2.03[E] (事実を「発見」と同視している))。102条(a)と同様、議会は、102条(b)が判例法を変えることはなく、それを明確化しただけであると強調した。「102条(b)は、決して現行法の下での著作権保護の範囲を拡大させたり縮小させたりはしない。その目的は、表現とアイデア間の基本的二分法は変化していないということを・・・明言することである」(H. R. Rep.57頁、S. Rep.54頁)。

 議会は混乱を少なくさせるために、1909年著作権法第5条における「電話帳・・・や他の編集物」という明確な記述を削除することにより、もう一つの措置をとった。既述のように、この条はいくつかの裁判所が電話帳そのものが著作権保護の対象となり、或る一つの電話帳内の個々の要素は著作権保護されると帰結するように導いてしまった。その代わりに、議会は2つの条項を制定した。第一は、編集物はそれだけで著作権保護の対象とならないことを明確にするために、議会は「編集物」という用語の定義を行った。第二に、或る一つの編集物の著作権は、事実そのものには及ばないということを明確にするために、議会は103条を制定した。
 「編集物」の定義は、1976年著作権法第101条に見ることができる。101条は、著作権法における意味において、「編集物」を「結果として生まれてくる作品が全体として著作者のオリジナルな作品を形作るような方法で選択、仕分、配列された既存の資料とかデータを収集し組み合わせて形作られた作品」と定義している。

 この制定法における定義の目的は、事実の収集がそれだけで著作権保護の対象とならないことを強調することである。それは、上でイタリック体文字(訳注:下線)で強調されたように、三者間の構造を通してこの意味を伝えているのである。制定法は、3つの異なる要素を識別して、作品が著作権保護される編集物となるためには、それぞれの条件が満たされなければならないとする。(1)既存の資料、事実またはデータの収集かつ組み合わせであること、(2)これら資料の選択、仕分、配列であること、(3)特定な選択、仕分、配列によって、著作者の「オリジナル」な作品の創造であること。「この三者が互いに結びあっていることは自明であって、そして『正確に立法の趣旨を表している』」と考えられるべきである(Patry 51頁では、Mills Music, 469 U.S. 164頁を引用している)。

 一見したところでは、第一の要件はあまり多くを語っているように思えない。それは、通常人が考えることを、既存する資料、事実やデータの集積である編集物と述べたにすぎない。これを意味あるものにしているのは、これ一つが要件ではないことなのである。著作権保護のためには、著作者が事実を集め組み合わせただけでは十分ではない。制定法の定義を充足するためには、その作品は更なる2つのハードルを越えなければならないのである。この方法により、日常的な言葉が、事実の収集すべてが著作権保護を受けるのではないということを示すことになる。

 3番目の要件も同様に示唆深い。それは、編集物がオリジナリティ要件(「著作者のオリジナルな作品」)を満たすときのみ、その編集物は、他の作品と同様、著作権保護されことを強調している。102条はオリジナリティ要件はあらゆる作品に適用されるとわかりやすく述べているが、事実に基づく作品は別の基準によって諮られ異なった扱いを受けると帰結することにより、「額に汗」を取った裁判所と同じ失敗を裁判所が繰り返さないように、編集物についてこの点が強調されているのである。議会が説明したように、その目的は、「102条に述べられた著作権保護の問題についての判断基準が、既存の資料を含む作品すべてに適用されることを明らかにする」ことなのである(H. R. Rep. 57頁、S. Rep. 55頁)。

 この制定法での定義において鍵となるのは2番目の要件である。それは、事実に基づく作品が著作者のオリジナルな作品であるか否かを判断するに際して、裁判所は集められた事実が選択、仕分、配列された方法に注視すべきであると、裁判所に教えているのである。これが、オリジナリティ要件の素直な適用である。事実はオリジナルであることはありえない。よって、事実が提示された方法だけにおいても、編集著作者はオリジナリティを主張することはできない。その目的のために、一番の焦眉は、その選択、仕分、配列が保護に値するほどに十分にオリジナルであるかに向けられるべきであると、制定法は規定しているのである。

 選択、仕分、配列のすべてが著作権保護の資格ありと認められるわけではない。これは制定法から明らかである。制定法は、保護に値させるためには、作品を全体としてオリジナルであるとする「ような方法」で、事実が選択、仕分、配列されなければならないと規定している。これは、なんらかの「方法」が著作権保護をもたらし他の方法はもたらさないということを意味している(Patry 57頁と脚注76参照)。そうでなければ、「このような方法で」という句は無意味であり、また議会は、「編集物」を単に「選択、仕分、配列された既存の資料やデータの集め組み合わせることにより形成された作品」として定義すべきであった。その時議会がそうしなかったことは決定的である。「裁判所は可能ならば、制定法の条項と文言一つ一つに影響を与えるべきであるという確立した原理」に従うならば(Moskal v. United States, 498 U.S. 103, 109-110 (1990年))、当裁判所は、仕分、配列が著作権保護対象とするには十分なほどオリジナルではない事実に基づく作品が出てくるであろうことを制定法は予見していたと判断する。

 しかしながら、既に論じたように、オリジナリティ要件は極めて説得力のあるものなのではない。編集者は、他人が使った選択や配列に依拠するかもしれない。目新しさは必要とされないのである。オリジナリティは、著作者が独自に選択や配列を(たとえば、別の作品から選択や配列をまねることなく)作り出すことだけを求めている。そしてオリジナリティは、最低限の創造性を表しているのである。恐らくは、編集物の大多数はこのテストをクリアするであろうが、すべてがそうとは限らない。創造的なひらめきが全く欠けているか、殆ど存在しないほどに些細である作品という限定された分野が存在し続ける(Bleistein v. Donaldson Lithographing Co., 188 U.S. 239, 251頁 (1903年)(この判例は「最も狭く明白な限界」について言及している))。そのような作品には正当な著作権を認めることができない(Nimmer §2.01[B])。

たとえ或る作品が著作権保護対象となる編集物として認められるとしても、それは限定された保護だけを受けのである。これが、制定法103条における重要点である。103条は、「著作権法の扱う問題には・・・・編集物が含まれる」103条(a)、しかしその著作権は、---そこに含まれている事実や情報ではなく---著作者のオリジナルな貢献だけを保護するのである。
 第103条(b):「編集物における著作権は・・・作品中に用いられた既存の資料とは異なり、そのような作品の著作者が貢献した資料にのみ及ぶものであり、また、既存の資料について排他的な権利を含むものではない。」

 第103条が明らかにしているように、著作権は、編集著作者が自ら集めた事実やデータを他の者が使えないようにさせることのできる道具ではない。「ここで最も重要なのは、著作権は、・・・既存の資料がパブリック・ドメインであるか著作権保護対象になるのか、いずれにせよ、影響を与えないのだ、と一般に誤って理解されていることである。」(H. R. Rep. 57頁、S. Rep. 55頁)。1909年著作権法は、「額に汗」を取った裁判所が誤って判断したように、後続の編集者一人一人は、ゼロから始めなければならず、他人が行った研究に依拠することができないということを求めているのではない(たとえば、Jeweler's Circular Publishing Co., 281 F. 88-89頁参照)。むしろ、著作権保護は事実の選択、仕分、配列といった編集者のオリジナリティに基づく要素のみを保護するのであるから、既存の作品中に含まれる事実は自由に複製が可能である。

 まとめとして、1976年の著作権法改正は、「額に汗」ではなく、オリジナリティこそが、電話帳と他人の事実に基づく作品の著作権保護の判断基準であるとしたことに疑いはない。1909年著作権法の下でも同様であったことも間違いない。1976年の改正は、多くの下級審がこの基本原理を誤って解釈していたことについて著作権局が懸念していたことへの直接の回答であった。また議会は、この改正の目的は既に在る判例法を変えることなく明確にすることにあると何度も強調した。この改正は実に丹精な明確さをもって、著作権保護にはオリジナリティを必要とする(102条(a))、事実は決してオリジナルなものではない(102条(b))、編集物における著作権は編集物が含む事実までは及ばない(103条(b))、編集物は、オリジナルな選択、仕分、配列を特徴とする限りにおいてのみ著作権保護の対象となる(101条)と説明しているのである。

 1976年の改正は、裁判所を正しい方向に舵取りすることにおいて、大きく成功していることを証明している。その良い例が、Miller v. Universal City Studios, Inc., 650 F. 2d, 1369-1370頁である。

「電話帳の著作権は、情報を発展させる努力の勤勉さではなく、むしろ、事実に基づく資料の選択と配列におけるオリジナリティにあると正しく理解されている。著作権保護は、事実そのものにまで及ばない。そして、体裁をそのまま複製することなく、電話帳内に含まれる情報を単に使用することだけでは、著作権侵害とはならない。」更に、約70年前Jeweler's Circular Publishing Co.判決において古典的な定式である「額に汗」理論を生み出した第二巡回裁判区は、今日この判決理由を完全に否定している(Financial Information, Inc. v. Moody's Investors Service, Inc., 751 F. 2d 501, 510頁 (CA2 1984年) (Newman, J., concurring); Hoehling v. Universal City Studios, Inc., 618 F. 2d 972, 979頁 (CA2 1980年))。「勤勉な収集」は報われるべきであると信ずる学者でも、これは現行著作権法の範疇を越えていると認めているようである(Denicola 516頁参照。そこでは「著作権法の用語は、ノンフィクション作品が持つ知的財産権を分析するのに適していない」とする、前掲書 520-521,525頁。Ginsburg 1867,1870頁参照)。



III


 Feist社がRural社の電話帳であるホワイトページから相当量の事実に基づいた情報を取り出したということは疑いがない。少なくとも、Feist社は、Rural社の電話加入者1,309人の名前、町名、電話番号をコピーした。しかしながら、コピーのすべてが著作権侵害となるのではない。著作権侵害を主張するためには次の2つの要件が証明されなくてはならない。(1)正当な著作権を有すること、(2)作品を構成するオリジナルな要素をコピーしたこと、である(Harper & Row, 471 U.S. 548頁参照)。第一の要件はここでは問題ではない。Feist社は、Rural社の電話帳は、イエローページ広告内のオリジナルな資料と同じくいくつかの見出しを含んでいるので、全体として、明白に著作権保護対象となることを認めたようである(上告人の提出書面18、および事件書類移送命令書9参照)。

 問題は、Rural社が2番目の要件を証明したかどうかである。換言すれば、Feist社が、Rural社のホワイトページから、1,309人の名前、町名、電話番号を取り出すことによって、Rural社にとって「オリジナル」であった何かを複製したかどうかである。確かに、データそのままではオリジナリティ要件を満たさない。Rural社は、自らの電話契約者の名前、町名、電話番号を最初に見つけ報告したかも知れないが、このデータはRural社が「その起源となる」ものではない(Burrow-Giles, 111 U.S. 58頁)。むしろ、これらの情報一つ一つは著作権保護されない事実である。それらの情報は、Rural社が報告する前から存在しており、Rural社が電話帳を出版していなかったとしても、存在し続けたであろう。オリジナリティ要件は、「どんなに想像力をたくましくしても原告が著作者を思いつくことのできないような名前、住所、電話番号の著作権保護を除外している」のである(Patterson & Joyce 776頁参照)。

 Rural社は、実質的に、名前、町名、電話番号が「既存の資料」であることを認めている(被上告人側提出書面17参照)。著作権法103条(b)は、一つの編集物の著作権が「作品の中で用いられた既存の資料」にまで及ばないと明確に規定している。

 残された問題は、Rural社が、オリジナルな方法で、これらの著作権保護対象とならない事実を選択、仕分、配列したかどうかである。既述したように、オリジナリティ要件は厳密な判断基準ではない。この基準は、革新的あるいは驚愕する方法で事実が提示されなければならないと求めているのではない。しかしながら、事実の選択と配列は、創造性とか何かを必要としないように機械的にとか決まり切ったやり方で行うことにはなり得ないということも同様に正しい。オリジナリティの基準は低いが、確かに存在するのである(Patterson & Joyce 760頁、註144「この要件は時には緩やかで基準が低いと特徴づけられるが、効果が無いということではない」)。当裁判所が説明したように、合州国憲法は、最低限の創造性を求めている(The Trade-Mark Cases, 100 U.S. 94頁参照)。そして、著作権侵害を主張する著作者は、「知的生産物、思いつき、着想・・・の存在を証明しなければならない」のである(前掲判決Burrow-Giles,59-60頁参照)。

 Rural社のホワイトページにおける選択、仕分、配列は、著作権保護のため憲法が要求する最低限の基準を満たしていない。最初に述べたように、Rural社のホワイトページはまったく一般的なものである。Rural社のサービス区域で電話サービスを希望する者は、申込書に記入して、Rural社はその者に電話番号を付与する。ホワイトページ作成の準備にあたり、Rural社は電話加入者から出されたデータを使用し、これを名字でアルファベット順に並べ変えただけである。最終的にできた物は、ありふれたホワイトページ電話帳であり、創造力のわずかな痕跡さえ欠いているものである。

 Rural社のリストの選択については、より一層明白にはなり得なかった。それは、電話サービスを得るために申し込む者すべての最も基本的な情報、---名前、町名、電話番号を出版していたのである。これは一種の「選択」であるが、単なる選択を著作権保護の対象となる表現へと変えるのに必要なわずかの創造性をも欠くものである。Rural社はホワイトページ電話帳が役立つものとなるように十分な努力をしたが、それがオリジナルなものとするには創造性が不十分であった。

 ちなみに、当法廷は、Rural社のホワイトページで特徴となっている選択が、もう1つの理由で同じくオリジナリティ要件をクリアできないことを指摘しよう。Feist社は、Rural社が電話加入者の名前と電話番号を本当に「選択」して出版したのではなく、むしろカンザス企業委員会(Kansas Corporation Commission)によって、独占的営業権の一部として、そうするように要求されたからである(737 F. Supp. 612頁)。したがって、この選択はRural社によってではなく州法によって必要とされたのであると結論づけることができよう。

 Rural社は、事実の仕分と配列においてもオリジナリティを主張できない。そのホワイトページは、Rural社の電話加入者をアルファベット順に並べたもの以上の何ものでもないということである。技術的な話として、この配列の起源はRural社に帰属するかもしれない。Rural社は名前そのものをアルファベット順に並べるという仕事を行ったことに異議はない。けれども、ホワイトページ電話帳においてアルファベット順に名前を配列することに、創造性は何もない。これは、古くからのやりかたであり、伝統にしっかりと根付いており、当然のこととして予想されるありふれたことである(法廷参考人(Amici Curiae)によるInformation Industry Association他への書面10を参照。これによると、アルファベット順に配列することは、「地方の電話会社によって出版される電話帳に広く見受けられるものである。」)。それは、オリジナルでないだけではなく、事実上不可避なものである。この由緒ある伝統は、著作権法と合州国憲法によって必要とされる最低限の創造的な才気を持ち合わせてはいないのである。

 当法廷は、Feist社によってコピーされた名前、町名、電話番号が、Rural社とってオリジナルなものではなかったと判断し、よって、それらは、Rural社のホワイトページとイエローページを合わせた電話帳の持つ著作権に基づき保護され得ないと結論づける。憲法上の問題として、著作権は、最低限度の創造性以上を持つ作品を構成する要素だけを保護する。電話加入者の基本的な情報のみをアルファベット順に配列しただけであるRural社のホワイトページは、基準に達しない。制定法の問題として、17 U.S.C. 101条は、全くオリジナリティを欠く方法でもって選択、仕分、配列された事実の収集物へは、複製から著作権を保護することができない。多くの作品はその基準を満たせないに違いないと考え、当法廷はこれより可能性のある代替案を考えることはできないのである。事実、当法廷がRural社のホワイトページは基準をクリアしていると判断してしまえば、事実の収集物はすべて基準を満たせないと信ずることができなくなる。

 Rural社のホワイトページは必要なオリジナリティを欠くのであるから、Feist社がそのリストを使用したことは著作権侵害にはあたらない。本判決は、Rural社が電話帳編集に注いだ努力を過小評価するようにではなく、むしろ著作権は努力ではなくオリジナリティに報いるのだということを明確にするように解釈されるべきである。当裁判所が1世紀以上も前に、「『大きな賛辞は、原告の勤勉さと積極性がこの新聞を出版したことに対して原告に送られるべきものであるが、けれども、法はこのように原告が報われることを予期してはいない』」と述べたように(Baker v. Selden, 101 U.S. 105頁)。


控訴裁判所の判決は、破棄する。

ブラックマン判事は判決文に同意。


Version 1.3

E-mail :hirofumi@sozo.ac.jp